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2019_1116_154603 地下に潜る

写真: 2019_1116_154603 地下に潜る

写真: 2019_1116_154606 地下に潜る 写真: 2019_0526_164242 淀車庫

京阪電車の七条〜三条の間は1987年(昭和62年)まで鴨川と琵琶湖疎水を隔てる堤防上を走っていました。
http://photozou.jp/photo/show/251552/148880485
堤防上に植えられた桜並木の間をそろりそろりと走る電車はなかなかの風情のあるものでした。
三条〜出町柳の間は1989年(平成元年)に新たに開通しました。
実質的には京阪本線の延長ですが、この区間は「鴨東線」という支線で届け出がされています。
京都市内の地下化の計画は1935年(昭和10年)から始まっています。
鴨川は古来、白河法皇をして、意のままにならぬは延暦寺の僧兵、双六の賽の目、鴨川の水と言わしめたほどの暴れ川でした。
昭和9年に全国を襲った室戸台風では鴨川に架かる橋の大半が流され、続けて昭和10年の大雨で起きた京都大水害でも堤防の崩壊など甚大な被害が出ました。この対策のひとつとして堤防の嵩上が検討されましたが、堤防上を走る京阪電車が邪魔になるので地下化することが考えられました。
ところが直後の昭和大恐慌から始まり、太平洋戦争、戦後の混乱、そして高度成長期にはより混雑の深刻な大阪側の地下化や高架・複々線化に重点が置かれて延び延びになり、京都地下線に順番が回ってくるまでに実に52年の月日が経っていたのです。

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コメント (3)

  • nophoto_70_mypic.gif

    四・三条も、それより先も、京阪を一番利用してたのは、地上を走ってた時でした。

    2019年12月14日 13:14 退会ユーザー

  • キューチャン

    中古のふさん
    ☆とコメントありがとうございます。
    私も母親の実家が京都なので小学生くらいまでは度々京都に行きました。
    中学〜高校生の間が比較的空白期間ですね。
    この区間は両側を鴨川と琵琶湖疎水に挟まれた堤防の上を走るのでかぶりつきで前をみていると何となく川に落ちそうでスリルのある区間でした。
    四条の駅は四条通を挟んで上りと下りのホームが「ぐいち」になってるし、四条通を走る市電と交差しているので踏切のくせに信号だけで遮断機がなく、(市電の架線があるから遮断機つけられなかったんでしょうね。)目の前を大きな電車がゴトゴト通過していくのは興味津々でした。
    三条は三条で駅の構内の真下に疎水が音を立てて流れていたりして独特の雰囲気がありました。地下鉄はまだなく、バスターミナルとしては今よりずっと比重が高くて活気があったと思います。

    2019年12月14日 23:13 キューチャン (36)

  • キューチャン

    TAKESHIさん
    ☆ありがとうございます。

    2019年12月16日 20:49 キューチャン (36)

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