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mixi記事コピペ――2015年06月24日 13:58

15.06.09.
●高井寺──
高井山 高井寺(たかいざん こうせいじ)
宗派、浄土真宗本願寺派
本尊、?
開山、籐三郎宗信
創建、鎌倉期
中興、賢超

はじめ高松寺といい、雨宮(現 千曲市)にあった。
天明5(1785)年、当地へ移転。
※高井寺HP、沿革→ http://kouseiji.com/profile/history.html


●福島正則屋敷跡──
この旧館跡は東西五十七間半(約104.5m)南北四十間(約72.7m)面積七反六畝(約76a)あり、四方に高土塁を築き塁の外に空濠を廻らしてあった。 現在東北隅に高さ約2m、長さ約19mの土塁が残存している。
正則は元和5年(1619)6月城地没収となり、上高井郡2万石、越後魚沼郡2万5千石併せて4万5千石の捨扶持を与えられ高井野の地に住居を定めたのである。正則の在館年数はわずか数年であったが、領内の検地を行い、高井野原の用水堰を開き、松川治水の築堤西条新田の開拓など民政に尽くした功績が大きい。
寛永元年(1624)7月13日64歳で病死した。 正則はかねて本村赤和に海福寺を興して菩提寺としようとしたが、故あって位牌は領内雁田小布施の岩松院に納められ廟所も同寺境内に設けられた。
(説明板より)

※福島正則──
永禄4(1561)年〜寛永元年7月13日(1624年8月26日)。
幼名、市松。
別称、左衛門大夫。通称、清須侍従。
法名、高斎。
賤ヶ岳七本槍のひとり。
(著名人だし、経歴仔細いらないよね?(≧ω・)テヘ ここに必要な部分だけ……)

元和5(1619)年、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反だと問われる。
正則はその2ヶ月前から届を出していたが、受理されていなかった。雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけだと、江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みとなった。
しかし、「本丸以外の修築分を破却」という指示に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。このため「破却が不十分である」と再び幕府より咎められる。
また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否したため、2代秀忠の怒りを買い、安芸・備後50万石没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5000石(高井野藩)へ減転封された。
移封後まもなく、正則は嫡男 忠勝(次男)に家督を譲り、隠居。出家して高斎と号した。

元和6(1620)年、忠勝が早世したため、正則は2万5000石を幕府へ返上。
寛永元(1624)年、高井野(長野県高山村)で死去。享年64。
高井野での生活はわずか5年あまりだったが、領内の総検地、用水路設置、新田開発、治水工事などの功績を残している。
(ベースwiki)


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing

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コメント (1)

  • 晴耕雨読 @黄昏の番犬

    mixiコメントコピペ――2015年06月24日 14:03
    高井寺には正則の墓碑(供養塔)があるのだ!! 撮り忘れた……!!il||li (´;ω;`) il||li 住職にノせられて案内に従って話すうち……。
    てゆーか住職も忘れていたろう。なんかでかけるところだったらしい。それでもめっちゃしゃべってたけどwwww


    本尊も確認すればよかった……/(・ x ・)\


    17:43高井寺18:05(所要20)
    17:46〜18:00住職法話・案内(なければ、ぐるっと廻って15くらいか)
    18:10福島正則荼毘所
    18:15リスタート

    2018年1月24日 10:47 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)

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