越ヶ谷御殿跡(埼玉県)
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mixiコメントコピペ――2011年02月02日 23:54
●縄文時代後期、越谷地域は海であった。周辺台地にこの頃の貝塚や住居跡が発見されている。
・弥生時代、越谷地域の陸地化が進む。
・古墳時代後期から奈良・平安時代(600~700)、越谷の地に人びとが住みつく。見田方地域に集落ができる(見田方遺跡住居跡) 。
・天平勝宝2(750)年大相模不動坊(現在の相模町大聖寺)建立。
・貞観3(861)年天台宗慈福寺(現在の浄山寺)建立。
・長元7(1034)年大沢の浅間神社創立。
長久・寛徳(1040~1045)野与党一族越ヶ谷太郎や大相模次郎が定住。
・野与党の氏神久伊豆神社建立。
・建長元(1249)年越谷最大最古の板碑造立される(現在の御殿町)。
・文禄3(1594)年利根川の太日川への瀬替え。もとの利根川を古利根川と呼ぶ。
・この頃から二・七の六斉市が開かれ農産物などの取引で賑わった。
・慶長7(1602)年幕府の宿駅制度により奥州街道の伝馬継立所として宿場町が造成される。
・慶長9(1604)年徳川家康が越ヶ谷御殿建立(増林字城の上より移す)(現在の御殿町)。
・寛永6(1629)年荒川が熊谷で入間川へ流され、もとの川は元荒川と称される。
・草加宿が成立し日光街道はほぼ現在の県道足立越谷線になる。
・明歴3(1657)年江戸城焼失により越ヶ谷御殿を江戸城に移す。
・元禄9(1696)年越ヶ谷にはじめて伝馬大助郷制度が決められる。
・享保2(1717)年方言学者越谷吾山、越ヶ谷に生まれる。
・寛延3(1750)年国学者渡辺荒陽、恩間に生まれる。
・文化13(1816)年越ヶ谷の山崎篤利、平田篤胤の門人となる。
天保14(1843)年この頃の戸数は1005軒、人口は4603人、旅籠数が本陣、脇本陣合わせて57軒。
安政2(1855)年大地震、被害甚大。
Albums: 埼玉県1 東部・利根・県央/武蔵国1
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Comments (1)
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慶長7(1602)年?慶長17(1612)年の間に、現越谷市の北東部分も武蔵国になったよう。
元荒川がまだ荒れまくる“荒川”だった時、よりも前の利根川だった頃、現越谷市のおよそ半分は、江戸開幕以前は下総国です。
現在の流路の大方は江戸期に固まったのでしょう。07-13-2024 22:35 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)
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