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堀田相模守屋敷(広尾4丁目)

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写真: 堀田相模守屋敷(広尾4丁目)

写真: 堀田相模守屋敷(広尾4丁目) 写真: 祥雲寺(広尾5丁目)一柳家墓所

12.01.25.堀田坂。港区西麻布区界。


mixiアルバム「渋谷区広尾4丁目 ・東3丁目」コピペ――
2012年09月06日 22:24
●広尾12.01.25.――

◎堀田相模守――
堀田佐倉家・佐倉藩堀田家・正俊系堀田家。
堀田宮川家分家。

1、正俊、従五位下・備中守、従四位下、筑前守
正盛3男。
慶安4(1651)年、3代家光の死去に父正盛が殉死。遺領のうち下野国新田1万石を分与され、下総国守谷藩1万3000石の大名となった。
4代家綱時代に順調に昇進。
明暦2(1656)年、稲葉正則娘と結婚。
万治3(1660)年、正則後見にて奏者番となり、上野国安中藩2万石を与えられる。
同年、宗家 正信(長兄。下総国佐倉藩)が改易となるが、連座お咎め無し。
寛文10(1670)年、若年寄。
延宝7(1679)年、老中就任。2万石加増。
延宝8(1680)年、家綱死去。家綱政権にて権勢をもった大老 酒井忠清と対立。継嗣問題で家綱の異母弟 綱吉を推す。綱吉が5代将軍に就任すると、大手門前の忠清邸(雅楽頭家)を与えられた。
天和元(1681)年12月、忠清に代わって大老に任じられる。
のち、牧野成貞と共に「天和の治」と呼ばれる政治を執り行い、特に財政面において大きな成果を上げた。

貞享元(1684)年8月28日、従叔父で若年寄の美濃国青野藩 稲葉正休に江戸城内で刺される。
(従叔父――祖父が兄弟。義父 正則の父は正成次男の正勝。正休の父は正成10男 正吉。)
医師に手当をされた後、重体のまま自邸に運ばれ、息を引き取った。享年51。幕府の記録には発狂のためと記されているが、事件は様々な憶測を呼んだ。
大坂淀川の治水事業に関する意見対立、
正休もその場で殺害されている、
将軍綱吉の関与――
正俊が暗殺される直前に生類憐れみの令発布を表明、正俊はこれに反対している、
正俊は綱吉を将軍に就任させた功績があり、大きな発言力を持っていた(推測)ため、両者の間に溝が生まれた、
この事件以降、綱吉は奥御殿で政務を執るようになった――
(これにより、老中との距離が生じた。こうして、両者を連絡する柳沢吉保・牧野成貞ら側用人が力を持つこととなる。)
家督は長男の正仲への相続が許されるが、屋敷地や所領は移転された。

2、正仲、従五位下・下総守、従四位下
3、正虎、従五位下・伊豆守、従四位下
4、正春、従五位下・相模守、従四位下・内記
5、正亮(まさすけ)、従五位下・相模守、従四位下、侍従
6、正順(まさなり)、従五位下・相模守、従四位下、侍従、大蔵大輔、
7、正時、従五位下・相模守、
8、正愛、従五位下・相模守、
9、正睦(まさよし)、従五位下・相模守、従四位下、備中守、侍従、贈従三位
10、正倫、従五位下・相模守

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